わたしの証明
免許書をもっていないわたしは、身分証明が必要なたびに「健康保険証」と、「このなかからいずれかひとつ」を探さなくてはならない。
「このなかからいずれかひとつ」を持っておらず、作ろうとすると身分証明が必要になり、また「健康保険証」と「このなかからいずれかひとつ」を探すことになる。
星新一のSFみたい...とか思いながら、パスポート申請の書類を用意している。
「じぶんを証明するもの」ってなんだろう、と思う。わたしがわたしたる理由というのは、いくつもあって、それが堆積したのがわたしの人生であるのだと思うが、こんなとき、なんてことばは頼りないんだろう。
いまのわたしは、少し前のわたしのように、じぶんのことをことばで説明する自信がない。説明が必要かどうかは置いておいて。
先日又吉さんの「やぁ」、朗読会 と さよなら、絶景雑技団 を観てきた。いろんなことを考えたが、ただただ又吉直樹という人に感心し、興味を持ち、魅了されていくばかりだった。
又吉さんの、これまで通ってきた道のり全てがつながってステージの上で渦巻いている。ひとつになっている。
芸人とか作家とか、過去もいまもどの肩書きも状態もすべて彼であり、だけどすべて「芸」に落としていく姿はやっぱり芸人なんだと思ったし、ほかでもない又吉直樹という人間であり、そのすごさにやっぱり圧倒されてしまった。
そして彼はとことん「じぶん」やじぶんの感情と向き合っているのだと思う。それはどんな労力だろうか。しんどくないだろうか。わたしがしてこなかったことを、いやというほど彼はしているのかもしれない。
「このなかからいずれかひとつ」。
わたしの中身をテーブルの上に全部並べていずれかひとつを選ぶとしたら何を選ぶだろう。
近頃、じぶんの悪いクセと向き合う機会があった。ときどき親しい人にだけ見え隠れするものだから問題視されることが少なく、自分さえも上手にだませていたというのに。ついに明るみに出てしまい、そして思い出す。わたしはずっとこうだった。
そしてこのクセが、何か大事なものを失うほどに悪いものだということにようやく気づく。幼い頃から何も変わっていないことにも思い知らされる。
「このなかからいずれかひとつ」。
消したい過去というのはいくつかあって、でも消えないからせめて、ごめんなさいが言えるのならわたしはいつを選ぶだろう。
よかったことだけじゃなくて、後悔したこととか、忘れてしまいたいこととか、そういうのもわたしの道のりに堆積している。
嫌だと思う部分も「わたしのなかからいずれかひとつ」選ばれたものでありわたしがわたしである理由のひとつに他ならないことを認ねばならない。