めにみえないこと

また書くね

1/30の雑記

今まで散々言ってきたはずなのに、感覚的なことばを聴くと嫌気がさすようになってしまった。スピリチュアルっぽい香りのするものに過剰に反応してしまう。「直感」「信じれば叶う」「無駄なことはない」とかもちょっとピリついてしまう。(どんな文脈で言っているかにもよるから、もちろん例外もあるよ)本人がそう心から思えているのなら、そうやって生きるのは構わないのだけど。

「無駄なことはない」という類のことは、よく口にしたり書いたりしてきた。わたしはわたしの人生において起きることを、そう捉えているというだけであって、誰しもにとって「無駄なことがない」わけじゃないと思う。そしてなんなら最近は「起きなきゃよかったことだってある」と思うこともあるし。だけど、何が起きても、自分で終わらせたいと思わない以上は、それでも生きていくわけなので、なんらかの糧にして生きていきたい、と、そういう話なもんで。


なんとなくスルーしてきた「子どもは親を選んで生まれてくる」とか、「人生に起こることには全て意味がある」「すべては繋がっている」とか、いや、それは本人がそう感じたならそれを信じればよくて、それを他者が言ってしまうのって本当にグロテスクじゃないか、とか、もういろんなことばが心をすごくゆっくりだけど確実に、締め付けてくる。

それで、同じことを誰かにしているんじゃないか、という恐怖も、ある。

 

大学生の頃、とある編集者さんとの会話の中で「なるようになる」というような発言をしたとき、その方は「なるようになるんじゃなくて、するようになるんです」とおっしゃった。それからは「なるようになる」ということばは使わなくなった。実質「なるようになった」としても「してる」んだと思うし。

 

まとまらないけど。

 

自分の感覚的な部分は残しておきたいけど、排除していきたい領域もある。こういうふうになってきたのは、旦那さんと社長との出会いが大きい気がする。「事実」や「化学」などをもとに、本人のルールに沿って判断する。自分の基準があり、物差しがあり、だけど人に押し付けない。ああ、わたしの表現だとなんと陳腐なんだろうと思うけど、そういう人たちと一緒にいることで、ぐにゃぐにゃのわたしの中に何か朧げに背骨のようなものが通ってきたのだとしたら。時間がかかってもちゃんと解りたいことがたくさんある、幸いに教えてくれる人たちがいる。魂の鍛錬していくしかないっしょ。(魂の鍛錬とかは、今も言う)