めにみえないこと

また書くね

つくることのひとりごと

「何かをつくりたい」ということはずっと昔から言っていて。それでも何もかたちにできないのは、自分が中途半端だからだとあるときからは思っていた。でも、何かをつくる仕事についたからそれが楽しくて。その部分は満たされているけど、いつか、それとは別の何かをつくれたらいいなと、ぼんやりは思っていて。でも何なのかわからないから、何かをずっとつくってる人には敵わないなと思って。敵わなきゃいけないんだっけ?とかもよくわからなくて。そのうち、そのうちねって思ってた。

 

去年の5月頃に父の病気がわかり、ほぼ1年間、割とそばにいた。父を元気づけたいから、父に見てほしいから、みんなに笑ってほしいから、あらゆることをやった。その中で私たちを支えたのが「つくること」だった。なんらかの表現だった。

 

庭の絵も描いたし、菜園の看板も描いた。写真を撮って文字や絵を入れた。ウクレレも弾いた。墨と水彩絵の具で晩ご飯のお品書きを描いた。短歌を詠んだ。

 

そのときは、何だって生み出せる気がした。迷わずに手を動かした。

 

クオリティは全然高くないけど、どれも本当に喜んでくれたと思う。家族だからかもしれないけど、だけど、こういうことがしたいんだと思った。

 

自分や、自分の大切な人が、家族が、友人が、元気で笑っていてくれるためのくふうをし続けたい。その中に、自分がつくるものの存在がある気がする。「コクハク」と言い始めたときから何も変わっていないのだと思う。

 

たとえば絵が上手になったらそりゃ嬉しいけど、絵の練習をするのはいまは違うと感じる。絵を上手くなりたいんじゃなくて、誰かを元気にするのがわたしの絵かもしれなくて、でも次は絵じゃないかもしれなくて、うーん、やっぱり何もできないから、わたしはプロデューサーになったんだろうか。

 

もちろんなにかを極められない女の戯言かもしれないが、なにか、、もう少しこの思いの核となる部分を見つめてみたい。なにかが前よりもわかりそうな気がしてる。

ちいさき宇宙を取り戻す

3段のカラーボックスが、「好き」でぎゅうぎゅうになっていくのを毎日毎日眺めていた。文庫本、マンガ、CD、雑貨、そこに入れていいのは本当に大好きなものだけだった。

あの頃は、そこがわたしの全てだった。

 

その中にあるものの話をする相手といえば姉くらいで、あとは頭の中で何度も何度も反芻して、心の中をそれでいっぱいにして、いつしかわたしの血となり肉となった。(のだ!)

 

問題はそこからで。田舎暮らしの女子中学生が、女子高生が、デタラメな順番やルールで出会った宝物たちを正しく履修し直すための、誰かのための行為がはじまった。それはわたしがいつでも誰かの目を気にしていたからなんだと思う。「わかりたい」と思ってはじめた行為が、誰かに何かを示すための行為になったらもうおしまいで、カラーボックスからはみ出すくらいの「好き」に囲まれているはずなのに、あの頃よりたくさんの「好き」がすぐ手に入るようになったのに、なんだかずっと息苦しくて心ががらんとしていた。

 

そんなとき、ぼんやりと3段のカラーボックスを思い出した。わー、忘れていてごめん、ちょっと間違えて大人ぶってたんだよ、とか言いながら、ホコリを払う。1冊1冊手にとって、うっとりして棚に戻すような、お気に入りの歌詞を何度もノートに書いて、頭の中で曲を再生してねむるような。そういう時間を思い出して、カラーボックスを抱きしめる。

 

たぶん大事なものってちょうどここに収まるくらいなんじゃないか。ここが真ん中だ。ちゃんと大事にしないと、わたしは揺れてしまう。

 

好きなもの、誰かに言わなくてもいい。ごく少数の、家族や友人に話せたらよりしあわせ。「好き」をはかったり、評価する必要はなくて。今日もぺたんと床に座り、カラーボックスを眺める。そんな日々がいい。

 

やまびこに乗って

実家に向かう新幹線の中である。薄手のカーディガンを羽織っても汗ばまない快適な季節。なんだがひさしぶりのブログになってしまったけど、書いてない間のことをぽつぽつメモしてみよう。

 

父の新盆や相続関連の手続きもほぼ済んで、(姉に感謝)すっかり日常が戻ってきている。もともと一緒に住んでいなかったし、コロナ禍で数年帰省できていなかったので、日常で父の不在を感じることは案外少ない。ただ、ふとした瞬間に突然脳裏で再生される記憶に、むねがぎゅっとなり、ボロボロと突発的に涙が出たりする。そんなときの涙は蛇口を突然ひねってすぐ閉めるみたいな感じで、猛烈なスピードで消えていくのでなんだかおかしい。くしゃみみたいな感じ。

 

この出来事がわたしを変えたのは間違いない。何かが内側で起きてる気がする。わかんないけど、なんかそんな気がする。ゆっくりとそれを確かめる、みたいに暮らしている。

 

SNSをあんまりやらなくなって、YouTubeプレミアムというのを解約してみて、そのかわりによく本を読むようになった。そして10月からはノートになんでも書くようになった。たまには書いてたんだけど、さらに、なんでもかんでも書くようになった。

 

そうすると、ちいさな習慣が変わってきた。習慣が変わるのが積み重なると、生活が変わる。すると、人間が変わった気がしてくる。よく「習慣は人生を変える」なんて言いますが、「トイレ掃除しただけで大金持ちになってたまるかよ」みたいな反抗心を持っておりましたが、反省、「トイレ掃除して大金持ち(意訳)」というのは信じられます。だってそりゃ、人生、この瞬間の積み重ねでしかないからね。この「習慣の見直し」みたいなのが楽しいのでしばらくはやっていこうと思う。

 

わたしは雑念も多く、器用じゃないのにいろんなことに興味を持っては手を出し、目先のことを優先してしまうため、あとでごちゃごちゃになって絡まっているのである、いろんなものに。知っている、アホなのである!だけど大切にしたいものがあるのは本当で、興味があるのも本当なので、考えるときにノートに書くようにしてみたのだ。頭の中で処理できるほど、わたしの頭はいい施設じゃないので、ノートにアウトプットしないとあやしい。そして、「何が足りないか」わかったら、足りないものについて勉強してみようと思うようになった。とにかくその項目について本を一冊読んでみたりとか。そんなことを繰り返しているのが楽しいのである。今更感はある。

 

姉が、未来の話をするのは、同じ方向を向いているときがいいと言っていた。ダイニングテーブルで向き合っているときより、車に乗っているときのほうが、父と治療方針について建設的な話ができたのだ。すごくわかる気がする。わたしはいま新幹線に乗っている。すごいスピードで前に進んでいる。そして、未来のことを考える。

 

 

今日は

今日はこれから、ずっと行けてなかった母のお墓へ。きれいにお掃除して、うちのお庭の花を供えてきます。再来週には父の四十九日があり納骨するので、その前に。「お墓にいるわけじゃない」と感じながらも、でもきれいにはしておきたいし、改めて「会いに行く」という行為っていいなと思う。お墓は実家から遠くて車で2時間くらいかかるのだけど、親戚のお寺なので気持ち的にはとても安心。近くに素敵なレストランがあるので予約もした。お墓参りのたびに行くのもいいね、なんて姉妹で話していた。

お墓参りにはお盆の時期の、暑い日のイメージがある。乾いた土の匂い、水の匂い、うなじがじりじりとしてくる。セミが鳴いている。もうすぐ夏がくるね。

本棚の話①

父が持っていた一部の本の奥付の上あたりには、買った日付とサインが書いてある。ときには、買った場所とその日の出来事も一緒に。特に20年前あたりに購入したものには必ず書いてある。

これは父の習慣だと思っていたが、もしかしたら母を真似て始めたことかもしれないと気がついた。

母は本が好きで、母の弟(叔父)曰く、ご飯中も本を読んでいるような筋金入りの文学少女だったらしい。学生時代に読んでいたであろう本には、サインや日付が書いてあった。

父がサインをしているのは、おそらく結婚した後の本だ。きっと父は母のそういったところにもひかれていたんじゃないかと勝手に想像する。

 

少しずつ本棚を整理している。普段見えなかった位置の本を手に取り眺めると、古本屋さんにいるかのような気分になりわくわくしてくる。家に持って帰ろうと思い、いくつか本を選ぶ。父のだと思っていたら、母の本も混じっていた。本を引き継げるのはとても嬉しいことだなぁ。父と母の何がわかるのかわからないけれど、大切にしたいと思う。

 

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もらうことにした本たち。どんどん増えちゃった。

カイシャ、そのふかしぎな生き物

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会社のこと。役員になってから、「みんな、弊社大好きでしょ?ね!」って行動ができなくなってしまっていた。存在感としては「弊社大好き社員」だった頃から変わってないはずだけど、むつかしく考えすぎて、「今わたしがそういうことをするとなんらかのハラスメントなんでしょうか?」みたいな気持ちになったりしていた。(そんな迫力はないんだけど…社会的には)

 

オンラインでやりとりしていると、みんながスムーズに気持ちよく働けているのなら、もうそれでいいのかな、みたいに思う気持ちもあったし、自分も家族のことでいっぱいで、それ以上の行動を起こせなかったのもある。心を尽くす、っていうことは、そんなに簡単じゃないから、わたしにとっては。だから家族に心を使っている間、わたしはカイシャのことをなんとなくこなしてやしないか?そんな考えはずっと頭の片隅にあった。リモートってこういうことでいいんだっけ。会社って?みんなでいる意味って?わたしの役割って?

巷では会社への愚痴、上司への不満やコミュニケーションへの憂鬱、そういうものをよく目にする。「仕事行きたくない」そんなことばも目にする。それが普通なのかもしれない、いや、普通がそれでいいのか?そうじゃない会社があったっていいよね、少なくともわたしは自分がいる場所は好きでいたいし、みんなにもそう思ってもらいたい…そういう気持ちで仕事しないと、いいものなんて作れないし、作れても、幸せって思えない…

 

だからこんどは会社やスタッフのみんなに心を尽くすときだなって思ってる。がんばる!

 

野生のブーケ

昨日の夜からまた実家へ。パパと植えたにんにくがちゃんと育ったみたいで、お姉ちゃんが収穫してくれた。みて、この可愛さ!にんにくに対して「可愛らしい」「愛おしい」という感情が湧いたのははじめてです。すごく美味しそうな匂いがする。

これは…ということでお姉ちゃんがにんにくを効かせたパスタを作ってくれた!最高〜、

 

 

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お庭の手入れをちょこちょこっとするのが癒されて、楽しい。ネットで調べれば色々書いてあるけど、参考にしつつやっぱりやってみないとわからない。だからこそ、楽しい!これは野生のブーケ。野草ってほんとうに可愛いなあ。
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