めにみえないこと

また書くね

2020.1.12

なんだかむかしみたいに今年の目標!とか、やりたいことリスト100!とか、浮かばなくて。えーなんだろう、大人になったってこと?とか思いつつ、わかんない。べつにやる気がないわけじゃないからいいかな。

ただ自分を生きるほかないと思っている節がある。自分に起こるあらゆることから学べると思っている。だから目標がどうこうじゃなくて、今できることをやっているような感じがする。いつも。

もともとそうだけど、最近ますます「挑戦・変化・情熱」っていうよりも、「安心・継続・日常」みたいな感じ。わたしには結局、わからないことばかりだし、でもわからないまでいいと思い出せたし、コツコツ続けることしかできひんし、そんなんが好きだし、だけど飽きっぽいし、家族が好きだし、万人には好かれないし、1歳児の友達がいるし、会社も仕事も大好きでたのしいし、ひとりで本読んだり映画観たりさんぽするのが好きだし、ごはんはおいしいし、いつか犬が飼いたいし、下北沢がやっぱり好きだし、たまには山に登るし、ほんとはキャンプにも行きたいし、好きな詩があるし、観たい映画があるし、わたしはわたしのこれまでもこれからもいちばんに愛するほかないし、愛しているわけだし。

サチコと世界旅行

わたしの旅行体験といえばほとんどささやかなもので、海外に至っては昨年のハネムーンで訪れたバリがはじめてであった。

 

それを境に、旅行、それも海外旅行への興味が以前より強くなっている。

 

どこか現実味がなかった「海外旅行」というものが、「行こうと思えば行けるんだ…」とやっと自分ごととして捉えられるようになった。

 

そうすると、次に考えるのは「どこで、何をしたいか」ということだった。漠然と、ヨーロッパに一度は行ってみたい、と思うのだが、どこの国へもおなじく漠然としたイメージしか持っておらず、具体的なことが何も浮かばない。ここへきて自分の無知さと向き合うことになる。

 

無知というのは認めてしまえば楽なもので、さあここからいかようにも楽しめるぞ、と頭を自由にしてみる。わたしが興味があるのは「圧倒的な自然」「絵本や童話のような世界観・街並み」「美術館・博物館」などであることがわかってきた。

 

もう少し深く考えてみると「チェコで雑貨や絵本、チェコアニメの世界にふれる」「イギリスで大英博物館へ行き、田舎町へ滞在」などようやく具体性を持って考えられるようになった。イギリスは旦那さんの思い入れのある国でもあるから、2人で行くことも想像しやすい。このプランはとても気に入った。

 

 

そんな中で先日、父と姉とこんな話をした。「もし、時間やお金を気にせずに、どこにでも行けるなら、どこへ行きたい?」というもしもの話。(わたしはもしもの話が大好きだ)

 

ほんの少し考えて、わたしは「アマゾン」と言った。姉は驚いて笑っていたが、実はわたしも驚いていた。「アマゾンに行きたい」と思ったことなどなかったからだ。でもやっぱりそう思った、わたしはアマゾンに行ってみたい。

 

アマゾンにこだわりがあるわけではなく、わたしは「圧倒的な自然や野生動物たちに、人間がまったくもって敵わない」ということを感じたかったようだ。アマゾン、サバンナ、どこでもいい、感じたいのはそれだった。そして単純に、そこで暮らす動物たちの生態や、自然のダイナミックな変化を見てみたかったのだと思う。「どうぶつ奇想天外!」の後半のドキュメンタリーを楽しみにしていた、小学生の頃のわたしと同じような気持ちで。

 

こうして頭と心で自由に海外旅行について考えられるようになり、わたしは随分楽しくなった。行ったことのない地に想いを馳せたり、実際行くにはいくらかかるのか調べてみたり。

 

アマゾンへ行きたい、と気付く前のわたしでは得られなかった楽しみを、いまわたしは手にしている。さあ、まずはどこへ行こうか。

 

おとなになんかなれやしない

コーヒーカップについたリップをみて、これは大人の人やお母さんのしるしなのに、と思った。

 

笑ってしまう、だってわたしはもう30歳なのに。

 

もう十分大人になったのに、結婚もしたのに、まだわたしは子どものままだな、と思う。誰かに甘えて生きることに慣れている。誰かが助けてくれることを信じて疑わない。

 

30年も甘えてきたのに、まだ甘え終わらない。

 

 

お母さんに甘えたいのかなあ、と思うことが時々ある。お母さんに甘え終わってなかったのかなあって。ちゃんと素直になってから、大人になってから、甘えてみたかったなあって、思わないこともない。後悔とは違うんだけど、大人になってからお母さんに甘えたことないから、甘えてみたいなって思うだけ。

 

一方で男の人に甘えたい自分がいることも認める。これは説明が難しいんだけど…

お父さんはずっと守ってくれてる、歳はとったけどやっぱり安心する。肝心なときは、お父さん、っていうのが昔からある。性別は関係ないと思いつつもやっぱり男性には安心感がある気がする。旦那さんもそう。いつも威張らないけど最終的にいろんなことを決めてくれるのは旦那さんだし、ものごとをちゃんと知っているし、どんなことを質問してもちゃんと答えてくれる。わたしみたいに感情ではしらないし、いつも安心する答えをくれる。それはそれは甘えてると思う。

 

それから、友だち。男の方の友達と女の子の友達で何かを分けてるつもりはないけど、やっぱり「安心の種類」が違う気がする。いつも何かと相談しちゃう大学からの友人、なんだかんだ長い付き合いのお兄さん、出会ったばかりで大好きになった人、みんなやさしい人ばかりだけど肝心なことをバシッと言ってくれる。わたしは心底安心する。女の子の友だちでも、そう。

 

でもそれを感じたときいつも、人に何かを言ってもらわないと、自信が持てないのか?って自分のことが嫌になることもある。

 

 

許されたい、愛されたい、認められたい。

 

全部わたしの中にある気持ち。こればっかりなのかもしれない、わたしは、ずっと。でもそれさえくれたら、わたし自分の役割をまっとうできる。

 

 

 

ブラックコーヒーを飲んでいてもおとなになんかなれやしない。カップのふちに赤色がついてもわたしは「お母さんのカップにつくやつだ、」って思ってしまう30歳なのだから。

 

70歳の父がヴィレッジバンガードへ行った

旦那さんのバンドがCDを出した。

 

もちろんわたしもとっても嬉しいのだけど、想像以上にわたしの父が喜んでくれていて、そのことがもっとわたしを嬉しくさせた。

 

最寄りのヴィレッジバンガードまでは車で1時間だったか。発売日の朝からお店に向かってくれていたみたい。

 

「開店前に着いちゃった」

「なんだかワクワクした!」

「買い占めようと思ったけどいっぱいあったから

とりあえず3枚買った」

 

 

どのことばもすごく嬉しくて。わたしは自分のことよりも、こういうことが嬉しいなあと思う。自分がないようだけど、家族が喜んでいることがいちばん嬉しい気がするなあ。

 

 

 

 

ある雪の日

会社にいたときは「みんな帰れるのかな」「早く帰りたいな」なんて思ってたけど、無事駅について、ラーメン餃子を食べてあったまって、家まで歩く道のり。

 

そこそこ雪国で育ったわたしにとって、雪景色ってすごくノスタルジー。子どもごころがうずく、うずく。よりによって8センチヒールのショートブーツを履いていても、それなりに上手に歩ける。つめたいのに顔がにやける。立ち止まっては空をみあげる、写真を撮る。

 

静かな街は時が止まったよう。浮遊する雪は魔法のよう。よそのお宅の人感センサーで点灯する照明に照らされて、そこは真っ白なステージみたい。誰かが作った雪だるま、明日のために雪かきする人、たまらずに外に飛び出した若い夫婦。慣れてないから、ハチャメチャな防寒。

 

雪って全部を、愛おしくさせる。

 

たまらなくて、こんな時がずっと続けばいいのに、みんな雪ではしゃいだあとにあたたかいおうちでゆっくりと家族で過ごして、ずっとずっとそんな時間が続けばいいのに、って。

 

かじかむ手、凍る前髪、はりつめる頬、白い息。つめたい空気を吸い込むと肺がすみずみまでひんやりする。なんかちょっと洗われたような気分になりながら。またこんな大雪の日がくること、ずっとこころのはしっこで願ってる。

 

f:id:sachico8:20180123201344j:plain

f:id:sachico8:20180123201355j:plain

f:id:sachico8:20180123201351j:plain

f:id:sachico8:20180123201346j:plain

f:id:sachico8:20180123201409j:plain

One more song 愛を聴かせて

芸能人の不倫報道ってどうでもいいと思ってたし、そのことについて何か発言するのも避けようと思ってた、でも今回の小室さんの件は気になって仕方がない。息が苦しい。何を隠そうわたしもれっきとした小室ファミリーなのである。(聴く方の)

 

「不倫報道」に心底飽き飽きして「いい大人のすることなんだから当人同士の問題でしょ!」っていう気持ちはもちろんのこと、今回はそれだけでは済まない妙な気持ちが渦巻いている。

 

小室さんが大変な状況だから、「だから仕方ないじゃないか」という気持ちなのか?と自問する。「それって仕方ないのか?」「同情か?」とかもぼんやり考えながら。ていうか病気や介護のことに関しては明日は我が身、他人ごとじゃなくない?とか考えながら。そんなことより、もっと身勝手な想いがある。そっとここに書いていいかなあ。

 

安室ちゃん、朋ちゃんYUKI、そしてKEIKO。圧倒的な個性と歌唱力を持っている彼女たちにいつだって憧れていた。本当に大好きだった。その才能を引き出す「小室哲哉」という人の才能にも惚れていた。時代も変わっていったけれど、わたしにとってあの頃の音楽は全く色褪せていない。むしろ輝きが増していって、胸が苦しいくらい。それくらい、永遠で、でもそれが今じゃないことが切なくて。もうなんて言っていいかわからないくらい。

 

ネットニュースの中でちらりと見かけた「KEIKOは音楽に興味がなくなってしまった」という記述に息が詰まった。わかってるよ、「ずっと歌い続けてほしい」なんて勝手な願いだ。彼女も人間、小室哲哉も人間、彼らが心おだやかに、健やかにいきていければそれでいいって心から思うんだけど。ものすごく心を揺さぶる1文だった。そんな「女の子になってしまった」KEIKOのそばに小室さんがいるんだと思ったら勝手ながら涙が出てきた。めっちゃかっこいいハイトーンボイス、ほとんど悲鳴みたいなのに美しくて強くて。あんなに"歌っていた"KEIKOが。

 

誰がなんと言おうと彼が生んだ数々の音楽はもうずっと、輝いてそこにあり続けるし彼女たちは歌い続ける。わたしはずっとその音楽を聴いて「あの頃」を思い出したりいろんな気持ちになったりする、新しい気持ちにも出会うかもしれない。彼らから何かを奪う権利なんて誰にもないだろ。

 

 

One more song 愛を聴かせて
踊り疲れた 夢を癒して
もう少し誰かのせいにさせてね
頭の中を一人にさせないで
 
(中略)
 
どこかに泊まるのと 街をさまようのと
どっちが悪いなんて 誰が決めるの?
 
愛してくれてる あなたが決めるの?
 
 

 

 

 

 

////////////////////////////////////////

 

 

 

小室哲哉、globe20周年の“真実” 過去の葛藤と「FACES PLACES」の意味を初告白 モデルプレスインタビュー - モデルプレス

 

 

www.youtube.com